昭和40年01月10日 朝の御理解
義理人情は紙よりも薄くなる。そういう時代が来ても、国の掟、国法は変わっても、変わらないのは自然の大法(たいほう)である。自然の大法ということを、ま、大法があるならば、中法があろう。中法があるならば、小法があろうと。大、中、小。そんな事を、今日、私、思います。ね。例えば、義理とか人情とかと、いわゆるお付き合いと。あの人は人付き合いもよう出来ないと。
まあそういう意味での、ひとつの人間対人間の、ひとつのしきたりといったようなものをです、私は小法と、今日は、いうふうに思うて聞いて頂きたいと思う。ね。国には国の掟がある。それを中法と聞いて頂きたい。ね。ところが自然には、自然の中には、ね、自然の大法というのがあるという事。ですから、どれも、いわば、おろそかには出来ない事である。けれども、ただ義理人情だけを心得て、ああ、あの人は義理堅い人じゃ、というだけで終わったってつまらない。
国には国の掟があるから、国の掟を守ってさえいけば、なら、幸せになるかという事はない。成程、国の掟を守っていけば、国の掟に違反したものが罰を受けるといっても、罰を受けんで済むことは出来ても、それで国の掟をです、守らせて頂いたから、あの人は幸せになったという事はない。そうでしょ。ね。ところがです、自然の大法を身に付けて、自然の大法が、にもとづいての生き方になってくる時です、これには人間の真実の幸せが約束されてくる。
ですから、順序としてです、ね、この、いうなら隣近所の付き合いでもです、ほんとに、いうなら、それに合わせていけれる人。もうただ信心しとるから、隣近所の付き合いはせんでもよかろう。人情なんか問題じゃないと。もう、こちらは神様の教えを頂いていきよる。自然の、いわゆる大法を学んでいきよるのだから。税金なんかでも、その、ごまかせるもんなら、ごまかせたちゃかんまん。神様のお道さえごまかさなければと。ね。いわば国法を、その、犯しても、いうなら平気であると。
といったような事ではですね、やはり自然の大法は分からないという事。ね。小学校から中学校、そして、いわば大学校。一遍に大学試験を、小学校にも、中学校にも行かんで受けることが出来ないようなもんじゃ。ねえ。その大学にやらせて頂いたらです、今まで習ってきたこと、中学校で習ってきたこと、小学校で習ったことは、実をいうなら、いわば程度の低いことではあってもです、やはりその程度の低いところから、それを身に付けていって、初めて大学に行けるようなもの。
ここで私がいつも、その、自然の大法を中心にして説く。ですから、そこんところが、一足飛びに、この、皆さんが、やはり体得をなさるということは、それでも出来ん。やはり、ひとことひとこと、実意丁寧に取り組んでいかなければならん。神様まかせと。神様まかせということは、まあ、親先生まかせだと。ほんとに親先生にまかせられる所までにはです、やはり、そこんところの信心が出来なきゃ出来ん。
やはり、小学校から中学校、例えば、私が今、大学の信心を頂いとるとするならば、そこのところを頂かなければ出来ん。例えばですよ、ひとつの事のお伺いごととか、ね、そういうような事を先生の仰る通りにして腹を決めようと。そういうようなのは、今日、私は神様まかせというような意味ではない。私は神様まかせと、まかせとは親先生まかせという事はです、もう、いうなら一切をおまかせするという意味なんです。神様まかせとは。いわば、身も心もおまかせするということなんです。
それにはそんなに、一年や二年や、信心の稽古を、させて頂いたからといって、それが出来るとは思われん。いや十年稽古したからというて、それが出来るとは思われない。ところがやはり、みんなの考えの中にもです、また言うならば、教祖の神様も、そこんところをおっしゃっておられますように、「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、みやすうみかげを、受けられると」お道の信心は、だいたいそういうような信心。ね。
だから、後々の者は、みやすうおかげが受けられるという、みやすうおかげが受けたいという気持ちの人が多い。ね。そこで、みやすうおかげが受けられるというのは、どういうような事かというと、神様まかせになるという事である。これが、いうなら一番みやすいおかげの受け方、お徳の受け方。ね。金光様が、または先生が一生懸命修行して、道を開いてくださった。その通りの修行をせんでもです、その先生が、いうなら金光様がお受けになられたおかげを、私共が頂くほうというならば。
みやすうおかげを受けられるというのは、ね、今日私が言う、ほんとの意味での親先生まかせになるという事。だからそこんところは、いうなら、どういう事になるかというと、泣き泣き辛抱し、またはです、ね、分からんなりにでも、親先生がああ仰るからというて、分からんなりにでも、その気に、その信心にならせて頂くという事。一番みやすいちゅうのはこれです。ね。
ところが、その、みやすいという事が、また実は、難しいですたいね。今日私が言う、神様まかせとか、親先生まかせというのは、もう身も心もまかせる。これが一番簡単なこと。いろんなあられぬ行をせんでも、もう、親先生がしておってくださる。教祖の神様がしておってくださる。ね。いうなら、ここん所はです、例えば、その、自然、じゃない、小法も中法もです、いうなら体得せんなりにです、大学生のおかげを頂けれるというような意味にもなる訳です。ね。
だから、そこんところがだんだん、本当になされていかなければならんという事。神様まかせになると。ね。神様まかせになっときゃいいというようなこんな楽なことはないでしょう。みやすいことはないでしょう。私が言う通りにしときさえすれば、おかげになると。別に、信心の道を体得しとらないでも、ね、そこんところの勉強が出来とらんでも、おかげになるです。
だからこれが、いわば、みやすうおかげの受けられるという事なのですけれども、そのみやすいという事が、実はまた、難しいという事になる。やはり疑心暗鬼。先生、ああ言いなさるけれども、本当だろうか、という事になってくるでしょう。そこに私は、どうでも必要なのはですね、訳は分からんけれども、その先生の信心なら信心に、ほんとの、いわば、惚(ほ)れ込みをすることだとこう思う。ね。
唄の文句の中にもありますようにですね、[恋の極楽、情けの地獄、ままよ捨て身のこのからだ]と。お互いが、その、極楽のほうだけはまかせようと思うけれども、地獄のほうはまかせようとしてないと。それではおかげは受けられん。最後の「ままよ」と、「捨て身の」というところが、私は一番大事と〔思う〕。みやすいという事は、実は、そんなに難しい訳なのです。けれども、これが極楽という、それにひたらせて頂いたらです、「ままよ」という心も出るということです。ね。
秋永先生が以前に申しておりました。「親先生が言われた通りのことをしてです、よしそれが地獄道につながっておっても、もうさらさら厭(いと)わんと。親鸞と法然の師弟愛のその言葉をです、そのまま私もそう思う」と言った様な事を言うておった。先生が言わしゃってから、それがおかげを落とそうが、それがよし地獄道につながっておろうが、さらさら厭わないと。これは私と秋永先生のいわば惚れ合いから、そういうような信心がまだ分かってない十何年前に、それを言うておったんですから。
いかに私の信心に惚れ込んでおったかという事が、私は分かるですね。そして例えば、現在、秋永先生の信心を見ておるとです、確かに、小法を体得していきよる。中法も覚えていきよる。そして、いよいよ自然の大法が身についていきよるというような気がする。みやすうおかげが受けられるという事は、そんな事だと、私は思うですね。ただ、一言一言のお伺いごとを、先生の仰る通りにさせてもらおうと。
それは私は「恋の極楽」のところだけを頂こうとしておるようなものではないかとこう思う。どうも先生の言われる事はそこは腑に落ちない。ほんなこっちゃあるじゃろか、と思うような事の中にでもです、いわゆる「ままよ」という心を出させて頂いてです、「情けの地獄」といういわば所も通らせて頂くことに、心が定まるというところに、私はほんとの大法を身につけることが出来るのじゃないかとこう思います。ね。
自然の大法が段々身についてまいります。そこから、例えば、今まであれは義理も人情も知らん男だと言われておった人でもです、それが見直される。ね。国法にも従うて、国にも、お国にも貢献が出来るようなおかげが受けられる。えてしてです、ねえ、その小法、中法をしっかり身につけていく人はです、もう、この世の中では、悪いことさえしていかなければ、神様も見てござる。
神様は私共を守ってくださるにちがいはない、というような思い方をする人がある。しかし、それでは、いかに世間付き合いが上手であっても、国の掟を犯さなくてもです、それで幸せになるという事はない。真実、人間の幸せというのは、いわば、自然の大法を身につけていくことである。自然の大法を身につけると、いうなら、自然の法則を体得するということは、ね、覚えるという事だけにおいては、一通りのことを聞けば、成程、自然にはそういう大法があるのか、法則があるのかという事が分かる。
分かっただけでは何にもならん。それを自分の身をもって頂き、それを形に現して、おかげに現していけれるというのは、ね、神様まかせになるという事によってです、神様まかせに、身も心もならせて頂く。身も心も親先生まかせにならせて頂くと。という決心がついたところから、自然の大法が、例えばです、ね、言葉やら文字の上では表しきらんでも、もう自分の心が体得しておる。
自然の大法を体得した人の上に、自然が限りない恵み、限りないおかげをくださることが出来るのであり、また、頂くことが出来るのである。そこには、私は何と言うても、「恋の極楽、情けの地獄」ね。極楽のところだけを求めてのものではなくて、「情けの地獄」という所も分からせてもらう。ためには、先ず,自分の、お取次を願っておる先生への、信心への、ひとつの憧念心(どうねんしん)というものが、いよいよ強くなって、ね。
もうこの先生とならば、ね、地獄道に、それがよし、つながっておっても良いという度胸がでけて、初めて、私はほんとの意味での極楽があるというふうに思う。私は今日はですね、もう大変、難しいことを皆さんに聞いてもらった訳なんですけれども、おそらく皆さんが意味がお分かりにならなかったと思う。ね。ですからね、意味が分からなかっただろうけれどもです、ね、私の言うたことだけは分かったと。その精神は、皆さんがなかなか分かられることが出来ないだろうと思うけれどもです、ね。
言うて聞かせても分からん事を、言うたってしかたがないじゃないかと。ね。分からんでも、しかし、やはり聞いておってです、それが後々、段々、分かってくる。体験から分かってくる。自分がその場に直面したときに、ああ、これが、ああいうような事かという事がです、分かって、まあ、くるだろうと思うて、今日はそのことを申しました。だからまあ今日の御理解をひとつ、間違えないように。
小法中法、大法と。それにはやはり小法、中法というものを、自分に体得してからでなからなければ大法は分からない、というふうに説いたかと思うとです、小法中法は、どうでもまあ言うならばよいと。大法を身につけるのには、いわば「恋の極楽、情けの地獄」といった、その例をもってですたい、その大法を体得することが出来ると。その大法を体得したらです、小法、中法というものは、自ずと身についてくる。
まあ言うなら、分かったような分からんようなですね、その御理解だったね。分かったような分からんようなというのじゃない、ならどっちを取ったなら私共いいですか、というような質問も出るような感じの御理解だった。けれどもそこん所がです、なかなか実にデリケートなものであって、私共がいよいよ何かの問題に、だから小法も大事にさせてもらい、中法もそれに従わせて頂く努力をさせて頂きながらです。
ね、もう小法では助からん、中法でも助からないという、ぎりぎりの時にです、お互いが大法を体得するチャンスがあるだろうと。そして大法を体得しておかげを頂く。初めて分からせて頂くことはです、ね、大学を卒業してみてから、小学校やら、中学校やらのことは、もう、いうなら要らん、要らんような気がする。ね。もう最高な学問を身につけたから、それだけで良いような気もする。けれどもやはり、学問の基礎というのが、小中学校にあるようにです、ね。
まあ、この辺のところは、皆さんひとつ、よく考えさせて頂いてから、お互いが言っておる親先生まかせといったような、ただ「恋の極楽」のところだけが、まかせられておるのではないだろうか、という事です。ね。「情けの地獄」という所にはです、目をつぶっておるような事はないかという事。成程、それでは「ままよ」というものは生まれてこない、という事になるですね。おかげ頂かなきゃいけません。